インテル社の8008(8080の間違いではありません)が発表されたとき、学生でした。

インテルとモトローラどちらにするか考えたときNECのTK-80の方が少しお安かった。この選択がメインラインを進むことになりました。

タンディラジオシャックというアメリカの会社がフルキーボードが付いたTRS80を発売、同じころアップル社もフルキーボード付きPCを発売しました。TRS80には外付けオプションで死語になったフローピーディスクドライブを付けることができました。なんと1ドライブで80KBの容量。今から考えると7桁ほど容量が少ない代物でした。ここでもフロッピーディスクが付くことが理由でインテル系から離れずに済みました。でOSらしきものも動作したので結構快適に使った記憶があります。生まれて初めてマイコンを搭載した製品のソフトウェア開発はこのマシンで行いました。C言語誕生前の時代ですからアセンブラでの開発です。

インテルマイコンのソフトウェア開発ツールはインテル社にMDSというマルチバスの製品がありましたが当時500万円程度の価格でしたから導入はできませんでした。何年か過ぎ、電産という会社がマルチバスの開発マシンを発売しているので知りました。同じ時期にホワイトスミスCという8ビットマイコン用のCコンパイラが日本でも発売されました。これの教科書になったのがカーニハンとリッチーが著作したC言語のバイブルです。電産のマルチバスマシンのOSは、CP/M80と言いました。後にインテル社の16ビットマイコン8086の発売と同期してCP/M86が誕生しました。遅れてマイクロソフトもMS-DOS1.0を発表・発売しましたが、使えるレベルではなかったと記憶しています。MS-DOS3.0まで進化したころにCP/M86を追い越し、やがてCP/Mは廃れて行きました。Windowsはバージョン1.0から触っていましたが、WindowsNT3.5が出現するまで実用にはなりませんでした。これはハードウェアの問題も大きく関わっています。8086にはアドレス空間が20ビット(1Mバイト)しかありませんでした。このアドレス空間をBIOS領域、グラフィックRAM領域など主記憶を圧迫する領域も使っていましたから主記憶はせいぜい700kB程度しかありません。加えてLANカード(私はNETWAREを使っていました)の共有メモリも割り込んでくるので仕事ではMS-DOSが唯一の選択肢でした(当時のWindows起動はMS-DOSから行うようになっていました)。

この状態が一変したのがインテル80386の出現とWindowsNTの出現でした。一挙にアドレス空間が16倍に広がり、WindowsNTはその空間で自由?に動作できました。余談ですがこの時代日本のパソコン市場ではNECがとても大きなシェアーを持ち一人勝ちでした。価格も、業務に使うPCは軒並み100万円を超えていました。海外(USA)ではIBM社がDOSVパソコンを発売し、オープンソースならぬオープンハードウェアで展開を行っていました。IBM社の初代パソコンはCPUに8088(データバスを8ビットに縮小した8086相当)を採用していました。

当時IBMは大型コンピュータで絶大なシェアを持ち、大きな利益を上げていましたからパソコンから得る利益はどうでもよかったのか分かりませんが、オープンハードウェアですから、誰でも互換機を開発することができました。そうASUSなど台湾メーカの登場です。インテルCPUも80386→80486→80586→Pentium(80686)→→CORE2→COREi(3,5,7,9)と進化し、IBMはレノボに事業を譲渡し、互換機という名称は無くなり、多くの台湾、中国メーカ+少しの他国メーカになっています。日本メーカの製品も大多数が中国で生産されています。

さて私のスキルの話ですが、C言語全盛時代に、Cの問題点解消のためC++が登場しました。C言語以外にPascal、Ada、Fortranなどなど多数のソフトウェア開発言語がありますが、ここではそれらに触れません。

C++がシェアを広げた頃、私は経営者的な立場になっていましたのでC++の発展と同期してこれを学ぶことができませんでした。思い返すと多少の時間を作って勉強を続けるべきでしたが、タイムマシンが存在しないので後悔は意味を持ちません。前半ではWindowsのことばかりでしたが、社内のネットワーク環境を含めてサーバーマシンは触っていました。先に触れましたがNetwareというファイルサーバが最初のサーバーでした。WindowsNT(後にWIndows2000、Windows Server)とサーバーOSも進化しましたがWindows95、XP、Vista,7,8.1,10は皆ファイル共有をはじめサーバとしての機能もある程度持っています。マイクロソフト社は、自社のOSにネットワーク機能を盛り込む際、UNIXに準拠せず独自の仕様でこれを行いました。昔のMS-DOSのファイル名が8文字+3文字までなど、過去との互換性を重視したことが原因の一旦ですが意味不明なことも多々あります。例えばネットワーク系の設定を見るコマンド、Linuxが属するUNIXの世界ではifconfigですが、Windowsではipconfigです。当時、インターネットと親和性の高いネットワーク上のサーバーを構築するためには、UNIXマシンが必要でした。

UNIXマシンはDEC(デジタル・イクイップメント・コーポレーション)のVAXなどがメジャーでしたが手が出ません。リーナスさん(Torvalds Linus)(親しいわけではありません。フォーラムでお会いしただけです)がlinuxカーネルを開発し、周りの方々がそれにデーモンや、ユーザーインターフェースを加えてディストリビューションが作られました。私が初めて手にした(多分1993年ごろ)のはSlackwareという名前のディストリビューションでkernelのバージョンは1.3でした。当時私はインターネット接続にIIJの従量課金制をISDNで使っていましたが通信料金が月額10万円を超えていました。インターネットの黎明期です。

インターネット以前はマイコン(パソコン)通信を一部の人達が行っていましたが、どちらかというと無線通信の愛好家が多かったように思います。一般家庭にFAXは普及しておらず、アナログモデムも一般的では無い時代のお話です。今は8芯のLANケーブルとHUBの組み合わせですが、当時のLANケーブルは同軸ケーブルでした。回線の違いもさることながらLAN上の通信データがNETBEUI(改良されたNETBIOSプロトコル)でした。社内にIP通信はありませんでした。それを一変させたのが、Linuxマシンの導入です。これで一気にTCP/IP通信(今と違って速度は10Mbpsですが、現在の1G/10Gbpsと本質的に同一です)が社内LAN上で行えるようになりました。

ミレニアム(2000年)が近づくころルネサス(当時は日立)のSuperHマイコンにLinuxが移植されました。SHlinuxは、私が関わっていた会社や、ゲームメーカ、xx総研などそれぞれ独立に開発されていましたが、インターネットを通じてお互いを知ることができ、一同に会する機会もあり、それを機会に独立行政法人IPAの未踏ソフトウェア創造事業から助成金を受けたりもしました。このころはインターネットの中心にハードウェア・ソフトウェアの開発者が位置し、利用者へ利便を提供していたと言えます。利用者もWebカメラを開発する、インターネットを経由して各種センサーのデータを得る。などなど、いわゆる技術的利用が大半でした。2007,8年にスマートフォンが誕生しWindowsもXP全盛になるとソフトウェアなどのダウンロード販売に留まらず、インターネットを使った真の意味のソフトウェアビジネスが盛んになり、今や全盛を迎えていると言えます。

Line、Twitter、Facebookといったソフトウェアシステムが開発され、ますます新しいものを創造し、実現しています。ネットワーク回線が高速化され、全くストレスのない高画質の動画をモバイルでも鑑賞できます。この土壌でYouTuberやアフリエーター、ブロガーのような利益を上げることができるようになり、ビジネスが誕生したのだと思います。個人でアフリエーターなどを生業にすると世間の多数意見としてフリーターカテゴリに入れられる時代も終わりに近づいていると考えます。今、私はC,C#,HTML,PHP,CSSなどのスキル、Adobe Premiere,Illustrator,Photoshopなどが自由に使える、サーバーの設定、管理ができるなど、偏ったスキルしかありませんが、アフリエイト、ブログ、YouTubeの動画公開など、持っているスキルをベースに新しい方向性を目指すためスタートを切りました。

実際に調べていないので私の想像ですが、ネット世界の最大人口が文系の方々に置き換わっていると感じています。私は科学者ではなく技術者なので、科学的事実に基づかない話をしても問題無いと思っています。”科学者は事実以外を述べてはいけない”これは「ミネルバのふくろうは夕方に飛び立つ」。ふくろうは知恵の象徴です。夕方に飛び立つのは結果を確認に行く以外のなにものでもありません。一方、技術者は夢を語り、想像を交えた話をし、人々に期待を与える理系の中のエンターテイナーだと思っています、まあ偶に期待外れも起こしますが。理系人として文系の牙城(と思っている)インターネット上の大きな領域インスタグラム、アフリエイト、ブログ、などなどに混ざりに行きます。